くしゅん、くしゅんと二度立て続けに起きたくしゃみに太刀川は読んでいたノートから顔をあげ、「風邪か?」とその持ち主に尋ねる。彼女は鼻を抑えながら「そんなことない……と信じてる」となんとも頼りなさそうなことを呟き、ボックスティッシュへ手を伸ばした。
 鼻をかむ彼女自身は実に『お嬢様』らしく、女子高に通っていたと聞いてもなんら不思議でないが、その行動はとてもじゃないが『お嬢様』らしくはない。別にお嬢様を好きになったわけじゃあないから構わないけどさ、と太刀川は内心ごちると、こっそりとノートを閉じ、「最近忙しそうにしていたもんな」と話を振った。
 暗に勉強は終わりだと告げる太刀川にはティッシュを鼻に宛がったまま深くため息を吐き、再びくしゃみを一つ。

「そうね、試験が近いというのにどっかの誰かさんたら勉強を全然しないんだもの」
「…………おー、それは大変だ」

 お前のことだよお前の、とはっきり告げるか迷った末睨みつけるにとどまる。へらっと笑いながら頭をかく彼はそろそろ留年にリーチがかかりそうだということに気付いているのだろうか。―――この男の場合、気付いていたとしても気にしないような気がしてならないので再び重いため息が零れた。
 ボーダー隊員ということで課題は誤魔化してきたが、遂に教授の皆様方に課題がなかなか提出が『ボーダー』でなく『太刀川』にあるということがばれてしまった。
 というのも、それまで使ってきた言い訳が「太刀川はA級第一位のチームを率いていますので……」だったことに原因がある。つまりは、どの課題もきちんと提出し、遅れる場合も前もって連絡を入れているが、A級第二位のチームに所属していることがばれてしまったのである。隊長と隊員で立場は違いますから、だの言い訳をごね太刀川の手助けしていた梓だったが、不審がった教授の皆さまから、遂に遂にボーダー本部へ問い合わせがあった。

 ―――太刀川くんは、くんよりもずっと忙しく、だから課題が片付かないのですか?

 その連絡を直接聞いた人物もまた悪かった。連絡を受けたのは太刀川が絶対に頭の上がらないであろう忍田本部長で、本部最強の虎と謳われる太刀川の師はすぐさまその問い合わせに、こう質問を返したらしい。

 ―――風間や嵐山はきちんと課題を提出していますか?

 その言葉が出てしまってはもう後の祭り。教授方も小柄ながら高性能なA級三位部隊を率いる男に、ボーダーの顔であるA級五位の部隊長の顔を思い出し、問いかけにすぐさま頷いてしまったらしい。
 そして太刀川はその後早々に忍田から呼び出され膝詰でお説教。何故かもその場に呼ばれ、太刀川の勉強を見ることを約束させられてしまった。これまで言い訳を手伝い、課題レポートを期日通り提出させなかったにも非はあったので、しかたないかと頷いたのだったが、その判断は少しばかり早まってしまったのかもしれない。

 彼の部屋では誘惑が多すぎてなかなか勉強は進まないからとの部屋に転がり込んだのはよかったが、勉強が捗らないのは場所が違っても変わらぬことで、太刀川はことあるごとに勉強を放棄したがる。挙句の果てには、

「風邪を吹き飛ばすためにも個人戦でもしようぜ!」

 などとのたまい、コートに手をかける始末。その手をペシンと叩き落とすと「飲み物のお代り持ってくる」と仏頂面で告げ、いつの間にやら彼専用になっていたマグカップと自分のそれ――二つセットで買ったために色違いのお揃いだ――を手に取り立ち上がった。
 自分用にココアの粉を取り出し、太刀川の分は珈琲を淹れてやろうとドリップのパックを取り出す。インスタントでもいいかと思ったが、以前部屋に来たとき「美味いな」と言っていたのを思い出してしまい、つい選んでしまった。
 やかんのお湯が沸くのをぼーっと眺めながら、どうしたら彼はやる気を出してくれるだろうかと悩む。風間さんたちに相談しようかしら、と思いながらも彼らは彼らで忙しいことを知っているので気が引けてしまう。とはいえサイドエフェクトの関係で、忙しいのは梓も変わらないので風間たちは二つ返事で了承するだろうが。
 ピーっと音を立てお湯が沸いたことをやかんが知らせてきたので、マグにそれぞれお湯を注ぎいれる。用のマグカップからはココアの甘い香りが、太刀川のマグからは香ばしい珈琲の香りが漂ってきて、もう少し頑張ってみるかという気にさせられた。

 二つのマグを持ち太刀川の元へ戻ると、やはりというかなんというか、彼はテキストやノートから目を逸らし、トリガーを手に取り弄んでいた。のやる気が一気に削がれ、この熱い珈琲を頭からかけてやったらこの男はどんな反応を示すだろうかという考えに頭が働く。驚きすぎて声も出ないか、熱ッ! と叫び声が上がるか。―――のサイドエフェクトは後者であると告げた。そんな不穏な気配を察知したのかはたまた喉が渇いていたのか、太刀川は「さんきゅ」といそいそとからマグを受け取る。変なところで勘が良い、と呆れ混じりにそっとココアを口にすると、「あぁ……」と小さくは呟いた。こうすればよかったんだ。

「太刀川」

 鼻にかかった声でそうかれを呼べば、緩慢な動作で太刀川は「どうした?」と顔を上げる。本当に風邪が悪化したのか、と心配になったがそんなことはなかったらしい。おのれの唇に柔らかいものがあたり、舌におんなのそれが絡み付く。音を立て離れたかと思えば、おんなはあろうことか

「勉強頑張ろうよ、慶」

 と至近距離で再び鼻にかかる声を出す。そこで太刀川は漸く、その声が風邪のせいでないことに気付いた。
 これじゃあ、頑張らないわけにはいかないな。了解、と返答を返す代わりにの後頭部へ手をやり深く口付ける。

 あぁまずい、これじゃあ勉強よりもべつのことを頑張ることになりそうだ。
20151030 … 賢い子はキスなんかしない 《title:as far as I know / 黄道十二宮》
 最後の呟きはどちらの台詞でもいいかもしれないななんて。ちなみに時間軸的にはたぶん原作時ぐらい