さらさらと書類に万年筆を滑らせる彼女の姿は、いかにも有能な秘書といった佇まいで、見ていて小気味良いと感じる。とくにここが書類整理のしの字すらまともに言えないような荒くれものの集まる秘密結社『ライブラ』だからこそそう思うのかもしれない。
いや、それを差し引いても彼女は秘書として非常に有能な女性である。―――のだが、どこか様子がおかしい。いつもよりファンデーションのノリが悪いようだ、だとか、眉間にしわを寄せる回数が多いだとかそういう目に見えることだけでなく、彼女の纏う雰囲気そのものが何というか―――おかしい。変だ。
彼女が変、変わり者であることは皆が承知していることだし、そもそもライブラに変でない人間など存在しないといっても過言ではない。
話がそれてしまったが、兎に角今のはなにかが可笑しい。にも関わらず周りは誰一人として、神々の義眼をもつレオナルドでさえも気付いていないというのだ。これはもう彼女がその不調をどうしても周りに隠しておきたいということなのだろうなと頭が回ってしまうあたり、俺はどうやら彼女のことがどうしても気になってしまうようだった。
どのようにして彼女に休息を与えようか。
俺にはしつこいぐらいに休息を勧めるというのに、対する彼女は「疲れた」だの「帰りたい」だの言いながらも仕事最後までやり遂げ、そのうえで最低限の休息のみをとっているときたものだ。
これは強く勧めたところで俺が休ませられるのが落ちだな。
そもそも彼女の不調には気付いてもその原因をいまいち掴めていない以上はどう休息をとらせるべきか悩んでしまう。
適当なことを言ったところで彼女はこんなときばっかり非常に口が立つため、恐らく自分は負けてしまうだろう。さて、どうしたものか。
そうこうしているうちに、どうやら天は俺に味方してくれたらしい。俺が悩む間にほかの構成員らは、やれデートだバイトだ子供の行事だと皆で払っていた。こうして悩む俺と、やはり顔色の優れないを除いて。
各々緊急時以外は自由に過ごすというのがライブラであるので、こういったことは全く珍しくない。そのためか気にすることなく仕事を続けようとした彼女に、悩むのも忘れて思わず口を開いていた。
「大丈夫か?」
怪訝そうな顔をされた。しかしそのまま彼女を見ていれば、緩々と顔をしかめはじめ、挙句の果てにはインクの乾いていない書類を気にすることなく、デスクに突っ伏してしまった。
「……なんでわかったのよぉ」
「なんでって、そりゃあ」
君をよく見ているから。そう言おうとしたのに、どういうわけかは勢いよく起き上がり「やっぱいいわ」などといいのけた。なんでといったのはそちらだろうとは思ったものの、このやり取りで彼女の体調の悪さが何によるものか分かってしまった。―――所謂、女性の事情だ。彼女のためにもこれ以上は避けておこう。
再び顔を突っ伏した彼女に「もう休んでいいいよ」となるべく柔らかい声を心がけて伝える。しかし器用にもそのままの体制で首を横に振ると「あとが大変になるから……っ」とむしろ今のほうが大変だろうといいたくなるような声を発した。
どこかの猿のようにサボりにサボりをかさねるはいかがなものかと思いが、彼女のように過労を重ねるのもよくない。自分のことは棚に上げ、呆れたようなため息を漏らせば、ぎろりと鋭い視線を向けられてしまった。オイオイ、勘弁してくれないか。ため息を無理やり苦笑に変換し、彼女からよく見えるよう両手をあげて降参のポーズをとる。はそれを確認するなり化粧が落ちるのも気にせず、両手で顔を覆って苦し気に息を吐いた。それが俺の今の行動に対するものなのか、彼女の体調の悪さからくるものなのかは俺には判断がつかない。
「あ゛ー……」
低いうなり声がの口からこぼれた。
「しぬ、……いやころせ、いっそころしてくれ……っ」
何とも物騒な言葉だ。だがこの言葉で先程の彼女の行動が体調の悪さからくるものだと判断がついた。にしても物騒だ。
笑みがはっきり深まるのを自覚しながら、ゆっくりとした動作でに近づく。
「、休みなさい」
声色は柔らかいものの言い方としては命令に近くなってしまった。さてどうやったら彼女は休んでくれるのだろうか。臥せったままのの頭へ軽く手を乗せ、「」と名を呼び続ける。
するとどうだろうか。緩慢な動作で頭の上の俺の手の上に己の両手を乗せたではないか。どういう目的での行動かと思いながらもゆっくり手を、彼女の頭を撫でるように手を動かせば、の両手が離れた。
―――頭を撫でてほしい、ってことか?
それに気づいてしまうとそんな彼女が非常にかわいらしく、愛おしく思えて来てしまった。
そこで俺の頭はあることを思いついてしまった。
「、良かったら君、抱き枕にならないか?」
頭が上がった。それに連なって俺も手を離せば、は少し不満げな表情を浮かべ、そしてそれはすぐに怪訝そうな表情へと変化を遂げた。
よく変わる表情だと声を上げて笑いそうになるのを堪えながら、考えていた科白を吐く。
「少し疲れてしまったから休もうと思うんだが、ここには枕なんてないだろう。良かったら君が抱き枕になってくれないかなと思って……」
見る見るうちにの表情はすうっと消え失せた。まずい、この作戦は失敗だったかもしれない。内心大慌てで、しかし表面上には出さず、何度目になるかはわからないが彼女の名を呼ぶ。少し声が震えてしまったかもしれない。
非常にまずい。どうするか。恐る恐るの顔を伺い見れば―――
「上司を休ませるのは部下の務めだものね、仕方ないわね」
ゆっくりと立ち上がり――顔を顰めたのですかさず体を支えた――、俺に体を預けた。
これは、もしかしなくても、成功―――ってやつか?
そのことに喜びを覚えながらも、はたと自分が何のために一緒に休もうといったのかを思い出し、考えを打ち消す。
だがまぁ、別にそのくらいはいいだろう。許してくれよ。から見えない位置で、にんまりと笑っていれば、どうやら気配で気付いてしまったのか、「なに……?」と本当に具合の悪そうな声をは漏らした。彼女は一体いくつ瞳を持っているのだろうかと不思議に思いながら首を横に振ると、
「先に眠っていいからね」
折れそうなほど華奢な身体を横抱きにして、柔らかい声をだす。
ようやく観念したのか、いやきっと上司を休ませるのはとか何とか言いながらも自分が休むためというのは分かっていたのだろう。は俺の腕の中で力を抜き、仮眠室へ辿り着くよりも先にスゥスゥと規則的な寝息がこぼれてきた。あまりの眠りの早さに、やっぱり眠りたかったんじゃないかと声をあげて笑いだしそうになったのを我慢し、彼女が目を覚まさぬようゆっくりとした動作を心がけ、仮眠室へ入った。
ベッドに寝かせ布団をかけてやり、「おやすみ」と囁いてやれば、どういうわけかは薄らと目をあけた。まさか起きるとは思っていなかった。驚き目を見開くも、どうやらただ寝ぼけただけのようで、緩々と目を閉じ再び寝息が聞こえてきた。
ほっとしたのも束の間―――おいおい、こういうことかよ。思わず苦笑がこぼれた。
彼女が一瞬目を開いたのは、どうやら俺を一緒に休ませるためらしかった。俺のシャツをが掴んでいたのだ。振りほどこうと思えば簡単にことは済むが―――部下の鑑のような彼女の行動を誰が無下にできる? 俺には無理だ。
可愛らしい行動をとったに免じて、ここは俺も休むとするか。眠ってしまえば何も考えなくて済むのだから。
残っている仕事については、眠りから覚めて、それから考えればいい。今はそんなことよりも彼女と安息を取ることが先決だ。
と同じ布団に潜り込むと、理由として述べた通り彼女を抱き枕のように抱きしめ、「おやすみ」と再び囁いた。
―――満足気な表情を浮かべているように見えるのは、決して目の錯覚というわけではないだろう。