「いい加減のんびりしたいわ……」

 書類の山を忌々し気に見ながらげっそりとした表情を顔に浮かべれば、隣で自分と同じぐらいの山――もしかしたらあちらのほうが多いかもしれない――を抱えるスカーフェイスの男が、すかさず「そんなことを言う暇があったら手を動かしたらどうだ?」などと言ってのけた。彼の言葉はごもっともだが、夕方から書類の片づけをはじめ、時刻は既に日付を跨いでしまっている。その間休憩はせいぜい御手洗にいくか眠気覚ましの珈琲を淹れに行く程度。しかもその珈琲は自分のものだけでなく、上司に当たるスティーブンのものまで。自分でいけと言いたかったが、「君の珈琲は旨いからな」などと言われてしまっては断ることは難しい。煽てるのがうますぎるんだよなぁと珈琲を飲みながら思ってしまったが仕方ないだろう。

 それにしても今日の書類は普段に輪をかけて多い。しかしそのほとんどがライブラ構成員の戦闘により破壊された建造物に関するものというのはいかがなものか。頼むからもう少し穏便に済ませてほしいと願うのは無理な願いなのだろうか。ポリスからは逃げられるのに建造物の損害賠償からは逃げられないというのもどうかと思う。
 これでスポンサーが減ったらどうするんだろう、と考えつつも、その場合はスティーブン先生がどうにかして稼いでくるだろうと検討付け、彼に向って手を合わせた。

 そうしたところ、ちょうどこちらを向いたスティーブンと目が合ってしまった。非常に気まずい。

……まさか思うが、残りの書類お願いします……だなんて、考えてないよな?」

 普段ならばこの言葉には、彼の持ち技のようになんたらデルセロアブソルートとつく笑みが浮かんでいたかもしれない。だが、今の彼の顔はまるで神に懇願するようである。

 ―――スティーブンも参ってるのね……

 そもそもそんな意味はなかったが、このような顔を見せられてしまってはのんびりしたいなどという言葉は取り消さなければならなそうだ。
 小さく笑みを浮かべて、緩く首を横に振る。

「そんなつもりはないから、安心して」
「本当だな! 今君に抜けられると流石に困るぞ!」

 その必死そうな表情がどうにもかわいく思えてしまうあたり、どうやら自分は相当疲れているようだ。それに対しくすくすと笑っていれば、スティーブンは何とも言い難い表情を浮かべ、それからデスクに頭を伏せた。

 そろそろ珈琲のお代わりが必要みたいね。

 のんびりはできずとも、少しの休憩は取れそうであった。

 そんな会話を楽しんでから早数時間。つい先ほど夜の帳が降りたかと思えば、すっかり空は明らみ始めている。ぐっと腕を伸ばせば、妙齢の女性らしからぬ音が節々より聞こえた。

「その、なんだ。……す、すごい音だな」

 気を使われてしまった。別に自分は全く気にしていないのだが、そのように言われてしまうと何ともむず痒い。器用にもひくりと唇の端を小さく動かしつつ、「はしたない音を失礼」と謝る。スティーブンはそれに対し、苦笑いを浮かべながら「こちらこそ失礼した」と謝ってくれた。
 いや謝られるほうが惨めなんですけど、と思いつつもそれを口に出すのはどうにも憚られてしまって、曖昧に笑っておさめた。

「あとどの程度残っている?」

 話を変えることにしたらしい。恐らく変えるためだけでなく純粋に確認したかったというのもあるだろうが。
 ところどころ痛みが目立ってきた髪をまとめなおしながら、目線だけで残りの書類の枚数を確認すれば、どうやらあと一時間もあれば終わる量のようだった。その旨をスティーブンに告げれば、そうか、と短い言葉が返ってきた。
は、そちらは?と尋ねようとしたが、すぐにやめて口を噤んだ。今己が片づけている書類はでもできるものだが、彼の書類は彼でなければ片づけられない、というものが殆どである。へたに尋ねて彼の地雷は踏みたくない。

 ―――せめて三徹、四徹になる前に仮眠を取らせなくちゃ……

 それが秘書たる自分にできる最善だろう。
 内心そんなことを考えていたら、急に「……!」と強い調子で名を呼ばれた。伏せていた顔をあげ、スティーブンと目を合わせる。

「それが終わったら昼まで帰って構わないよ」
「……え、いいの?」
「あぁ、だが昼まででたのむ。ついでに来るときにサブウェイで何か買ってきてくれ」

 ここから書類を片づけて自宅に帰るとなると、三時間少々の仮眠は取れるだろう。やったぁと両手をあげて喜べば、スティーブンは笑みを浮かべていた。

「有能な秘書殿は睡眠をとらせたほうがもっと有能になるからな」
「効率の良い睡眠をとれば誰だってそうよ。お言葉に甘えて終わらせたら家に帰らせてもらうわね」

 にんまりと笑みを浮かべて「ありがと」と礼を告げる。

「でも、あなたこそそれ片付いたら仮眠をとるべきなんじゃない?」

 『有能な』秘書として一言言わせてもらうも、

「君よりも頑丈にできているから問題ないさ」

 と軽くあしらわれてしまう。取り付く島もないとはこのようなことを言うのだな、と実感じた瞬間だった。小さく肩を竦めながらも書類に手をつけ、同時並行でどうやって徹夜を回避させようかと悩む。
 しかし、スティーブン・A・スターフェイズという男は、自分がこのように頭を悩まし考えたところで、そう簡単には仕事の手を止めてはくれないやつである。

 そうなれば実力行使しかないわね。

 ひっそり、くつりと笑いをもらせば、突如スティーブンはぶるりと体を震わせた。次いで素早く周囲を警戒するも、特になにも見つからなかったようで、そのまま書類の山へと意識を戻した。どうやら、殺気にも似たの思考を薄らと感じ取ったようである。寝不足であっても、書類の山と格闘していようとも、ライブラリーダーの副官、番頭殿の勘は侮れないものである。

 ―――けど、気付けないぐらい疲れているときに、私お手製の無味無臭睡眠薬を彼お気に入りのサンドウィッチに混ぜたら、きっと分からないわよね

 今度の笑みは、心の中に押しとどめ、先程よりも仕事の手を早める。人間だれしも目標があればそれだけ頑張れるものである。―――その目標の意図が、『スティーブンを休ませるため』でなく『普段ならば気づかれるであろう薬を盛ること』に変わっているなどとは、露程も気付かず。
20160406 ... 夜を運ぶ術 《title:as far as I know / 黄道十二宮》
20160515 tumblr再録