ばきっと聞こえてきた鈍い音に顔を顰め天井を見る。いや違う、今の音は絶対に違う……! そう念じても違わねーってのは明らかで、これが現実逃避にしかならないことを俺はよくわかっていた。けどやっぱり現実逃避をこのまましていたい……。
 しかし次いで聞こえてきた「御幸先輩! 足! 足の下!!」「眼鏡踏んでますよ!?」という騒がしい声たちに一気に現実に引き戻される。知ってるよ、知ったうえで見ないようにしていたんだよ……。
 風呂に入るときでも俺は極力眼鏡を外さないが、さすがに髪を乾かす時は豪快にタオルを使うため眼鏡を外すようにしている。今もそうやって外し、そこまではよかったのだが思わず手を滑らせて眼鏡を床に落としてしまった。そして不運ってのは重なるもので、やべっ、と慌てた勢いでばきっと、ばきっと……くっ、これ以上はいえねぇ……ッ

「何自分で眼鏡踏んでんだよ……」

 呆れた声を漏らすのは倉持。正直眼鏡がないと何も見えないから声でしか判別できないが寮で共同生活を送っているとそれだけで誰だかわかってしまうものだから感謝しかない。―――いや何に対して感謝しているんだっつー話だけど。
 そうだよ自分で眼鏡を踏みましたよ、踏んで壊しましたよ。わかってるからそんな「やっちまったなぁ」と半笑いで言うのはやめてくれ。お前俺今何も見えてねぇけど大体どんな表情を浮かべているかは想像つくんだからな。

「くっそ、予備の眼鏡どこしまったけな……」
「予備なんてあんのかよ」
「昔使ってた弱い度のやつなんだけどな。日常生活に支障来したわけじゃねェしとりあえず諦めてそれかけることにするわ……」

 ぐっと目を細めどうにか自室へと向かおうとすれば、「取ってきてやるからてめぇはそこ動くな」と強く肩を引かれてしまった。言わずもがな倉持の行動である。あらやだ倉持くんやっさしーい、とを真似て言ってみようかとも思ったが、そんなことをすれば確実にローキックを食らうことがわかったので心に留めておいた。さすがに眼鏡のない状態で蹴りを食らうのは危険だ、絶対に倒れる。

「で、あるとしたらどこだ」
「たぶん机の引き出しの中」

 無かったら机の上にコンタクトは確実にあるからそれ持ってきて、と頼めば「はいはい」と快く了承してくれた倉持に感謝。
 つーか俺机の中ってやばいもん入れてないよな……? 急に不安になりながらも今の状態ではどうにもならないので、やばいもんがあったらあったでもうそれは諦めよう……と壁に寄りかかるように立って待つことにした。

「眼鏡なかったぞ。ほんとに予備なんてあるのか?」

 ぼやーっと倉持のいる方を向けば小さな何かを差し出された。あっこれコンタクトか。倉持の手から俺が受け取る、という形にしてしまうと確実にコンタクトケースを落してしまいお亡くなりになられた眼鏡の二の舞だと思ったので、逆に俺が手を差し出して手のひらの上にケースを置いてもらった。そこまで済めばコンタクトをつけるのは毎日のことなので余裕だ。
 にしてもまじで予備眼鏡どこやったっけな。

「つーかここまで無残だと絶対の奴爆笑もんだろうな」

 確かにちゃんなら大笑いしそうだ。意外と笑いのツボが浅いは自身でも「箸が転んでもおかしい年頃よ」と認めるほどである。

「―――あっ」
「どうした? 思い出したか?」

 思い出した。のことを考えていたら、思い出した。うーわこれも絶対忘れてるだろうな。

の家だわ、俺の予備眼鏡」
「…………はァ?」

 わかる、わかってるよ倉持。俺だって同じ気持ちだもん。
 ―――なんでの家にあるんだよ俺の予備眼鏡。
 とはいえ俺は当事者だからよーく理由は分かっていますけどね! 口に出せないから理由を考えることを放棄し、さてこれからどうするかと悩むことにした。



 そして訪れた邸の玄関で、は近所迷惑にならない程度の声量を保ちながらも、見事高らかに笑って見せてくれた。

「あっはっはっ! なぁに、それでわざわざうちまできたの?」

 馬鹿ねぇ、連絡くれたら寮まで持っていったのに。って、言われてもなぁ。持ってきてほしくないからこうやってわざわざここまで来たに決まってんじゃねぇか。

 はじめは明日の朝学校に持ってきてもらおうかとも思ったのだが、時計を見たところどう考えてもが寝ている時間とは思えなかったので、ならば早々に取りに行った方が楽だなという結論に至り、こうしてを尋ねてきたというわけである。

 しかし俺はそこで一つ間違いを犯していた。

 チャイムを押したときは丁度風呂に行こうとしていたところではじめはどうやら居留守を使うつもりだったようだが、突然家に押しかけてきたのが俺だとわかった途端にすぐ部屋の扉を開いてくれた。そんなの優しさはとてもかわいいし嬉しいしいいものだと思ったけど、そのあと続いた「何しに来たのよ何時だと思ってんのよこの馬鹿」という言葉と腹にグーが決まったのはいただけない。完全に不意打ちだったため腹筋に力を入れることも叶わず痛みに蹲っていれば、はそこで俺が眼鏡をかけておらず暗い中には不釣り合いなスポサンを着用していることに気付いてくれた。「なにかあったの?」と尋ねる声に怒りは込められておらず、あぁ、ちゃんとメールで説明してから来ればよかったな……アポなしでこの時間はいろんな意味でまずかった……と後悔した。つってもメールを送らなかったのはそれを先に知らせてしまってはが一人で外に出て寮まで来かねないと思ったからなので、後悔はしつつも次に似たような状況が起きたとしても絶対にメールは送らないんだけどな。

 そして俺の弁解に似た説明を聞き終えるなり軽快な笑い声をあげ、「連絡くれたら持っていったのに」等というものだからやっぱ俺の判断は間違っていなかったんだなぁ、としみじみ感じたわけだ。

「まぁとりあえず入りなさいなスポサン男。メガネはすぐにとってきてあげるから」

 その言葉に甘え、勝手知ったる邸へお邪魔すれば、は「さぁて眼鏡どこやったっけかな」と何とも心配になる言葉を口にしながらパタパタと家の奥へと小走りで入っていく。ちゃんそれ冗談だよな、ちゃんとすぐに見つかるところにあるんだよな……? 
 つーかどこにいろって言うんだよ。夜道では誰かに見られたら目立って仕方がないスポサンを外しながら一先ず自室へ向かったを追っかける。誰かに眼鏡もスポサンもかけていない素の顔を見られるのはなんとも恥ずかしいが、であれば何度も見せているので全く問題ない。
 裸足でぺちぺち足音を立ての部屋まで来ると、ベッドサイドの棚を引っ掻き回しているの姿が目に飛び込んできてしまって。

「悪い……そんな状態になるまで眼鏡取りに来るの忘れてごめんな……」
「私も学校持っていけばよかったのにそのまま放置だったからきにしな……あーあったあった」

 せめて最後まで言ってくれよ。しかしその行動こそがらしさであると思うので、肩を竦めながら彼女から眼鏡を受け取り、寮から持ってきていたコンタクトケースを取り出す。
 の部屋は意外とかわいらしい雑貨がそろっており、そのうちの一つであるパステルカラーのクッションを背に座れば、「お茶持ってくるわね」と半笑いのまま部屋を出て行ってしまった。いやそこは部屋に残っていろよ。なんでいなくなっちまうんだよ……。少しの寂しさを抱えながらもそれがなんだよなぁと諦めてコンタクトを外した。

 冷たい麦茶のポットを抱えてが部屋に来た時にはすでに俺はコンタクトから眼鏡姿になっていたのだが、あろうことか「あら残念」だなんてが言うものだから―――ちゃん待ってどういう意味? と内心首を傾げる。
「はいお茶どーぞ」じゃねぇだろ、もっと大事なことがあるだろう! 顔が引き攣らないよう必死に表情筋を痛めつけながらからお茶のグラスを受け取る。
 あーどういうことか本当に気になる、気になるけど、残念ながら時間が来てしまった。いい加減でないと門限までに寮へ戻れない。一気に冷たいお茶を飲み干し「急に押しかけて悪かったな」という謝罪と共に立ち上がれば「次からは連絡頂戴ね」と言われてしまい、それには曖昧に頷いて答えた。



「残念って、俺のコンタクト姿をもっと見ていたかったってこと?」

 やはり気になってしまい、玄関で靴を履いたところでハートマークを浮かべ冗談交じりに尋ねてみる。俺の素顔を見たかったというわけでないならあの場で「残念」だなんて言わないだろう。それに気付いてしまえばしっかりとの言葉でその旨を聞きたいという彼氏心がむくむくと湧き上がってきたのだった。
 しかしそれに対しては「あぁあれ?」となんでもない風に笑い、突如俺の顔へ手を伸ばしてきた。正確には俺の予備眼鏡に手は伸び、あろうことかそれを外してしまった。ちゃん何も見えないから返して、と訴えようとすれば―――

「私貴方が裸眼で思いっきり目を細める姿好きなのよねぇ」

 それを見れなくて残念だった……というわけらしい。全く見当違いというわけではないが、どうにも少しずれている。素顔でなく目を細める表情って……に好きと言ってもらえて喜ぶべきなのか、はたまたそんな何とも言えない深妙な表情を好きになった俺の彼女のマニアックな趣味を心配すべきなのか。「そーいうことですか」と答える俺はの好きな目を細める姿をしているだろう。

 ちゃんの顔をしっかり見れないし、キスをしようとしても上手くいかないから俺はあんまり好きじゃねェんだけどな。ちょっとした不満から口を尖らせその旨を告げれば、んっふっふと奇妙な笑い声をが漏らした。お前それさすがに奇妙すぎるからやめろっていったやつじゃん……学校では絶対にしてないみたいだからいいけどさぁ……とかなんとか考えていれば、先程同様俺の顔へと手を伸ばし、そして先程とは異なり俺の両頬をむんずとつかみ。

「あら、こうやって私からしてあげられるんだからいいじゃない」

 眼鏡はなくとも至近距離に顔はあるおかげで、はにかむの表情が良くわかった。
 確かにこれも悪くねぇけど、そんなことされると俺の心臓が持たないから勘弁して。
20160915 ... きみの言霊がわたしの心臓の形を決める 《title:リリギヨ
 御幸夢を書くときって倉持を登場させると一気に書きやすさが倍増する……。