なんだか怠いなとは朝起きた瞬間から思ったことだったが、どうせ昨日の練習の疲れが抜けていないだけだろうと高をくくって朝練に参加したところ、練習が終わるころには怠さだけでなく熱っぽさまで加わり完全に風邪を引いてしまったようだと気付いた。だからといってここで休むわけにはいかない。大会も近いしうるさい一年共の面倒も見なければならない。やることは山積みだ。
 幸い今日の授業は監督や部長、それから礼ちゃんが担当のものはなかったし、最悪寝ていてもまぁ甘く見てくれるだろう。問題は隣の席のあいつだけだが、意外とあいつは俺たち選手に甘いところがある。真面目に授業受けなさいといいながらも眠っていればそのまま放置。あてられそうになったところで容赦なく起こしてくるがそれは優しさからの行動で、俺や同じクラスの倉持はあいつの、のおかげで随分と楽をさせてもらっている。ただし寝ていたときのノートは非常に高くつく。一回分につきダッツ一つね、と笑った顔はきっといつまでも忘れられないだろう。悪魔のような笑みだった。倉持と合算でいいと言ってくれたことに関しては現金にも天使のようだと思ったけどな。
 そんなわけだから兎に角放課後の練習までは休んで備えよう。ぼーっとする頭でどうにかそこまで考え制服に着替える。正直それすらも億劫なほど具合が悪かったが、授業に形だけでも参加しなくては練習に出られない。それだけは勘弁、その一心でどうにか着替える。ここで沢村が絡んで来たら面倒だな、頼むから来ないでくれよ。どうにか願いは叶い、沢村だけでなく他の誰からも珍しいことに必要以上に話しかけられることなく着替えを終えた。そういえば倉持のやつ、課題がどうのって言ってたな。周囲を見渡しても倉持の姿はなかったのでこれ幸いと重い体を引き摺るように、されども周りからは気付かれないよう細心の注意を払って更衣室を後にした。

 だがどうやら俺は本当に頭が回っていなかったらしい。目の前で仁王立ちするの様子に顔を引きつらせる。

「ねぇ御幸、私に何か言うことはなぁい?」
ちゃん今日も美人だね。そんな美人さんには早く教室に行こうぜって勧めるよ」
「唯ごめんタオル持っていって貰ってもいいかな」

 いいよ大丈夫、それより程ほどにね。曖昧に笑いその場から夏川が離れたのを見計らって、がぐいと俺のワイシャツの襟元を掴み歩き出した。つーか俺の言葉は無視かよ。普段なら「当たり前のことをありがとう」だとか言ってしれっと笑うくせに、今日のは怒っているような悲しんでいるような、なんとも言い難い表情を見せるだけだった。
 あー気付かれちまったか、とは思うもののそう簡単に認めるわけにはいかない。さてどう言い訳をするかと考えているうちに寮へ辿り着いてしまった。その間の手は俺のワイシャツに伸びたままで、これじゃまるで犬の散歩だ。その旨を告げるか迷ったが、言ったところで「じゃあ今度首輪を持ってきてあげる」と言って本当に持ってきかねない。いやこの女なら確実にやる。

「なぁちゃん」
「何よ」
「まじで授業遅れるから早く教室行こうぜ」
「大丈夫よ今日の授業は監督も太田部長も高島先生も担当じゃないから」
「(おんなじこと考えてやがる)」

 以心伝心嬉しいね! と茶化してやろうかと思ったが、その言葉が出てこなかった。あーこれ相当まずい。の手がいつから俺の手首を掴んでいたのかも分からない。

 意外にもはこっそりと寮に入るのではなく、食堂にいた寮母さんにきちんと挨拶してから入っていった。そして「ちょっと待ってて」と俺から手を離すと小走りで寮母さんのもとへ行き、一言二言小声で話してから二人でどこかへ行ってしまった。残された俺はというと大体の行動が読めてしまったのでため息を零しててきとうな椅子に腰かけた。そこでチャイムが鳴り響き、完全に遅刻じゃねえかと再びため息。少し息を切らして戻ってきたに「やーいサボり」とからかうように言ってやれば、彼女は怒ったように―――ではなく、諭すように「一也」と短く俺の名を呼んだ。

「これで熱計って」

 差し出されたのは体温計。寮母さんから出してもらったのだろう。そして一人で戻ってきたところを見ると、もしかしたら寮母さんは薬だとか冷えピタだとか、兎に角そのあたりの道具を探しているのだろう。
 怒っているわけではない。だが心配そうに揺れる瞳に、あきらめて体温計を受け取った。往生際悪くどうやったら誤魔化せるかと考えていれば「誤魔化しても無駄だからね」と止めの一言。おとなしく体温計を脇に挟めば、一分ほどで高い電子音が計りおわったことを知らせてきた。

「何度だった?」
「えー……うん平熱だな」
「何度だっつってんでしょうが!」

 顔を顰めて体温計を奪い取られた。はっはっはと笑っていれば悍ましいものを見るような目で俺に視線を合わせる。

「これが平熱っていったら普段どんだけ低体温なのよ。つーか猫か。あんたは猫か!」
「いや、人間人間」
「だったらこれ高熱っていうのよ。わかる? 貴方熱で視力やられたみたいだけどこの体温計38°って言ってんの。わかる?」
「わかってるよ」

 分かってないでしょと叫ばんばかりの勢いのだったが声のボリュームは控えめで、あぁ気を使ってくれてるんだなと思うと可愛い。けどこう、目を吊り上げて怒るのはやめてほしい。その表情で顔が固まったらどうするんだ。他の奴らが思うのと同じで、―――いや、他の奴らが思う以上に俺はを可愛いやつだと思っているし、できることならずっと笑っててほしいとも思う。ま、今怒らせてんのは俺なんだけどさ。笑った顔がかわいいのはもちろんのこと、のこの感情的にコロコロと変わる表情が俺は好きだ。さっきと言ってることは矛盾してるかもしれないけどさ。
 兎に角まあそんなわけでは可愛い。―――こんなことを真剣に考える時点で今の俺は相当体調が悪いんだなとよくわかった。普段であればこっぱずかしくて絶対無理だ。

 というわけだからできれば俺のことは放っておいてほしい。風邪がうつってこいつが苦しむ姿なんて見たくないし、あと弱ってるときに近くにいられるとついつい甘えてしまいそうになる。かっこつけたいわけじゃないし、甘えるのがいやなわけじゃないけど、兎に角一人だって俺は大丈夫。だから。

「何が大丈夫、よ。真っ赤な顔で歩くのも精一杯。それなのに強がっちゃって。ほっとけないに決まってんでしょ」

 叱るでもなく、困ったように笑う姿はまるで「しかたないなぁ」と言っているようで。
 差し出された手に自分の手を重ねれば、力強く俺の腕を引いてくれた。華奢な腕のどこにこんな力があるんだかと思いながらどこに目線を向けていいのかわからずなんとなく目を泳がせていれば、その華奢な腕にはまるこれまた華奢な時計が一限の終わりを指していることに気付いた。意外と時間は経っていたらしい。

、授業」
「この期に及んでまだ受ける気だったの!?」

 どうせ寝てるつもりだったのに!? と驚きを露わに俺の顔を下から覗き込み、はすぐに口をつぐんでしまった。そして静かにため息。

「病人が気を使ってんじゃないわよ」

 そしてそのまま俺の手を掴んでいない方の手をぐっと伸ばし、ぐしゃぐしゃと俺の頭を撫でてきた。待ってちゃん俺もう高校生だしあとついでに頭痛もするんだけど……。
 顔を引き攣らせる俺に気付いているくせしてそれをやめようとはしない。小悪魔っつーか悪魔みたいなとこあるよなこいつ。

「あのね、病気になった時ぐらい人に甘えなさいな。別に誰も迷惑じゃないし、むしろ黙っていられるほうが不安になるんだから」

 少し寂しそうな笑みを浮かべるのは、自身にその経験があるのかはたまた何か別の思い当たることがあるのか。
 そのあたりはよく分からないけれど、とりあえず一言言えるのはめちゃくちゃ俺の彼女は可愛いってこと。風邪を引いてなかったらこのまま襲うところだぞと思い―――風邪を引いたからこそ出た言葉なんだとしたら、今度からにだけは具合が悪いと正直に言うのも良いかもなという結論に落ち着いた。
20160901 ... 一人だって、大丈夫 《title:リライト / 意地っ張りな君へ5のお題》
 本当は部屋に行ってベッドに寝かせてってとこまで書くつもりだったけど収拾つかないからやめました。